羅漢和尚の墓
名僧「玉瑞和尚」または「羅漢和尚(らかんおしょう)」は、文化四年(1807)糸魚川西海・大久保集落の庄屋猪又長左衛門の次男として誕生西海の耕文寺で小僧を務め、天保六年(1835)27歳で「梅渓玉瑞」と名のり、蓮台寺村の延命山昌禅寺の17代住職となりました
托鉢行脚をし、浄財を集め、八万体造立の悲願と情熱をかたむけ、500体の石仏を造ることを念願し、10年の歳月をかけて天保13年(1842)に羅漢堂と石仏555体を完成しました(蓮台寺五百羅漢堂)
また天保13年から嘉永2年(1849)には三幅三千仏画(一幅に千体の仏が描かれた掛け軸)を完成しました(耕文寺蔵)
慶応2年(1866)には月不見の池近くに「八十八ヶ所」の名で知られる四国八十八ヶ所巡りのミニチュア版を造りました
奇岩・巨石の間にある八十八の石仏を巡るコースは約2時間を要し、糸魚川ジオパークの「月不見の池ジオサイト」のジオスポットとして訪れる人も多い場所です
→越後八十八ヶ所巡り
玉瑞和尚は明治17年(1884)78歳で没するまで各地に石仏を置きました
糸魚川市内から望める日本百名山「雨飾山」山頂に善光寺式阿弥陀三尊仏を安置したのも羅漢和尚であったという説があります
最後は即身成仏を願い、自らの墓を生家近くに求め、露頭する自然石(凝灰角礫岩)をくりぬいて墓を造り、経文仏画を刻み、入母屋形石室としその身を置きました
しかし死にきれずに現世に戻ったと言うエピソードが残っています
自然石の墓としては日本一の大きさ(5×4×3.5m)で229個の釈迦涅槃図が模してあります
さてそのお墓は、
水保の観音堂から水保街道を南下、市野々(いちのの)方向に4kmほど進むなか、下記の地理院地図の標高309m付近(図①)で大久保集落に分岐します。コンクリート壁に「大久保入口」が刻まれています
道を進み、突き当り、これを左折すると左手に「羅漢和尚墓」の標柱が建っています(図②)
大久保集落にはほとんど居住する人は無く、作業小屋らしき家が数軒残るだけです
左折した道を100mほど進むと、右手に2段の石垣が積まれた丘が見えます(図③)、階段を10段程登ると立派なお墓に巡り合えます
昔は水保と御前山を結ぶ重要なルートであったろう大久保の地も
国道221号線が主流となり、今は荒廃が進むばかりの山里となった林の一隅
和尚のひたすらな情熱と強い意思で刻まれた大きな墓が、150年経った今も堂々と残っています
明治17年(1884)五月二十三日、羅漢和尚は78歳で寂滅
中村栄美子さんのふるさと民話「羅漢和尚の墓」Youtubeもどうぞ
→ふるさと民話「羅漢和尚の墓」
見守る人がいるようです、さらに50m道の奥には、花が手向けられた子安地蔵尊、馬頭観音の祠がありました
【アクセス】
糸魚川駅から車で35分、距離11km
水保観音堂から車で15分、距離4km
道は細いですが車通行可能です。図②付近に4台ほど駐車スペースあり