経王寺の梵鐘と中村五兵衛
経王寺(きょうおうじ)は慶長元年(1596年)に日言上人が中興開山した糸魚川市新鉄の日蓮宗の寺。山号は守栄山、旧本山は立本寺経王寺の梵鐘
天津神社の別当だった宮神宮寺が所有していましたが、明治初年の神仏毀釈により宮神宮寺が廃寺となったため経王寺に移されました。
梵鐘には
「
奉建立天津神宮寺鐘一口
越中国前沢金屋大工藤原末次沙弥了性
大旦那 糸井河道浄次郎左衛門尉
永享四年壬子九月九日 敬白
」
とあり、製造年代、奉納者、製作者が明確のものとしては新潟県最古の梵鐘とされます
越中国前沢出身の藤原末次沙弥了性作で、永享四年(1433年)糸井河道浄次郎左衛門が奉納したものです
また越中の黒部(富山県黒部市)系鋳物師の作で、本県に現存する数少ない中世の梵鐘として貴重であることから昭和47年(1972年)に新潟県指定文化財に指定されました
全国寺院から供出され太平洋戦争で弾丸とされた鐘も多くある中で、かろうじて難を免れた尊い鐘
朝夕町中に響き渡る音を静かに聴いてみてください。
上杉謙信の指定した塩問屋「中村五兵衛」の墓
経王寺本堂の真裏、石塀に囲まれた中にその墓はあります
墓頭に家紋付きで切妻風の屋根が付き、正面に「南無妙法蓮華経先祖代々之塔」、左側面に「上杉謙信公塩御用問屋 中村性十二代五兵衛義行」
塩の道は戦国時代の武将・上杉謙信が、敵将・武田信玄の領国が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送らせた道で「義塩の故事」の舞台になったと伝えられています
「道路元標」石標が加賀街道と松本街道が交差する十字路(地名四つ角)に立っています
ここから北側は直ぐ海岸となっていて、江戸時代の北前船や明治・大正時代には蒸気船が発着していました
日本海から揚げられた荷物はこの周辺に集荷され、白馬通りに塩問屋や、荷物を運ぶ牛を休憩時に繋いでいた「牛つなぎ石」など塩の道が続きます
四つ角付近は昔の糸魚川の町の中心部でもあり大いに賑わった所であったわけです
中村五兵衛の墓は当時の塩問屋の権勢を伝えます。
糸魚川には日蓮宗の寺院は経王寺のみです。400年前から続く門徒もあり、狭い寺院敷地の中で多くの墓が所狭しと建っています
新しい墓地も少なく家族制度も変わりつつある現代、墓を管理する世の事情も変化したこともあり、近年共同供養塔が建てられました
多くの供養を受けただろうお盆明けの朝、夏空に堂とした石塔が目立ちました。
経王寺周辺マップ