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直指院と良寛碑

この北陸の地は仏教伝来以前から古来の神々が信仰されており、とくに新潟県は神社数が全国第一位です。
糸魚川市内には多くの寺社があり、市街の中央には宗派の異なる寺社がいくつも隣り合って建っています。
寺社巡りやその成り立ちに興味がある方には面白い土地だと思います。

糸魚川市の町並み、古くは糸魚川駅の北側(旧国道沿い)に細長く広がっていました。
現在の糸魚川駅北口を降りて、西に5分も歩くと「直指院(じきしいん)」の山門があります。



単伝山直指院は曹洞宗の古刹(こさつ)で創立は慶長三年(1598年)。
山門を入ってすぐ右手に自然石を掘った大きな石碑が建っています。



良寛禅師の有名な詩碑で

余将還郷至伊東悲駕波不預寓居千客舎聞雨凄然有作、
一衣一鉢裁随身
強扶病身坐焼香
一夜粛々幽窓雨
惹得十年逆旅情


  碑の裏には、「昭和五年 為良寛禅師百年忌記念 木蔭会建之 柏崎小林群鳳刻」
とあり、良寛の百年忌に御風の主宰する木陰会が建てたものである、とあります。



詩歌の説明板には
曹洞宗の円通寺(岡山県倉敷市)で修行ののち帰郷の途中、糸魚川直指院に宿を取ったときに病にかかり雨を聞き凄然として作った詩であり、相馬御風もここ直指院で筆をふるったと記されています。





良寛について
「りょうかんさま」と親しまれる良寛は、宝暦8年(1758)11月2日越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)の名家、町名主で回船問屋の橘屋山本家に生まれ、天保2年(1831)2月18日島崎(現・長岡市)に亡くなった江戸末期の人。
子どもたちとよく毬つきやかくれんぼをしたことが知られ、日本の原風景のようなイメージもあれば、清貧の中で優れた俳句や書をたくさん残した孤高の高僧というイメージもあります。

この里に手鞠つきつつ子供らと 遊ぶ春日は暮れずともよし

霞立つながき春日に子供らと 手鞠つきつつこの日暮らしつ



良寛70才、弟子貞心尼30才の晩年の恋も興味深い。
君にかく相見ることの嬉しさも まだ覚めやらぬ夢かとぞ思ふ(貞心尼)
夢の世にかつまどろみて夢をまた 語るも夢もそれがまにまに(良寛)
作家瀬戸内寂聴は作品「手毬」で表しています。

良寛は「道元」の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を精読しており、道元が古代仏教の経典から引いて説いた菩薩行を実行していました。
それは「四摂事(ししょうじ)」という菩薩が人々を悟りに導くための次の四つの方法だといいます。
布施(ふせ):貪らず分かち合うこ
愛語(あいご):優しくいたわる言葉をかけること
利行(りぎょう):相手のためになる行いをすること
同事(どうじ):人々に協力すること。
良寛の生きた江戸時代は辻説法などが禁じられて布教ができなかったこともあり、子供たちに語りかけることが良寛のできる衆生の救済でした。
良寛は生涯を無一物の野僧として過ごしたのです。
辞世の句
うらを見せおもてを見せて散るもみぢ

仏教説話「月の兎」
猿と狐と兎の仲の良い3匹が遊んでいると、山の中で倒れている老人に出会った。
猿は木の実を拾い集め、狐は川から魚をくわえてきて老人に与えた。
しかし兎は何もとってくることができなかったので、猿と狐に火をたいてもらい、炎の中に身を投げて老人に与えた。
姿を表した天帝は兎を月の宮殿に連れ帰った。

相馬御風は、良寛研究家の第一人者として知られています。
良寛研究は大正5年に糸魚川へ退住してから、晩年までの30数年に及びます。
御風の良寛研究の成果は20冊以上の著書に結実しています。

直指院の山門は、宮大工であった相馬御風の先代が建てたもので約160年前のもの。

山門内の地蔵群の中にはクルス地蔵(隠れキリシタンのもの)があり、これだけの大きさのものは珍しく見学に訪れる方もおられます。



アクセス
直指院
JR糸魚川駅日本海口より徒歩5分
住所  :〒941-0068 新潟県糸魚川市本町3-5
     TEL/0255521036
HomePage:http://www.jikisiin.sakura.ne.jp/

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