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天津神社の歴史(後編)

天津神社の歴史
この土地は、古事記や万葉集に載る奴奈川姫や翡翠によって日本の歴史に登場する。
奴奈川は古代糸魚川の地名であった。翡翠の珠を所有する奴奈川の人達は、古墳時代前期(三世紀)頃から今の平場に居を構え村落を形成していた。
境内には、二社が鎮座する。
天津神社の祭神は
 中央に天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)
 左が天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 右が太玉命 (ふとだまのみこと)
で、伊勢神宮外宮相殿の祭神と同じである。

天津神社の西側に並ぶ社殿は奴奈川神社である。
奴奈川神社は古来からの国つ神で延喜式内社のひとつと云われ祭神は
 奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)
 後年に八千矛命(やちほこのみこと=大国主命)を合祀(神社の合併)
を祀る。

時代西暦日本の歩み神社の動き
弥生時代天津神社創設(12代景行天皇の頃)
大和時代大和朝廷統一 古墳時代の祭祀の遺物が出土している
舞楽伝来
推古天皇
飛鳥時代大化の改新天津神社が36代孝徳天皇の勅願所になる
奈良時代奈良遷都
平安時代天台・真言宗
10田楽おこる木造奴奈川姫像、木造天津神社女神坐像三軀
鎌倉時代11鎌倉幕府石造如来形坐像
12浄土宗、日蓮宗木造奴奈川神社随神像二軀
室町時代13能楽懸仏二面、木造天津神社随神像二軀
14一向一揆舞楽面
安土桃山15楽市楽座舞楽面
江戸時代16徳川幕府舞楽面、装束
17
18
明治時代19
大正昭和20

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1)奴奈川姫像(新潟県指定文化財)
桧材の一本造りで、像の高さ45センチ
彩色が施され、双髻を結び、髪を両肩に垂れ拱手して座る姿である。作りは簡素であるが、神像独自の清澄な表現が見られ、その温和で端正な像容の中に鎌倉時代の特色が看取することができる。
延喜式内社の奴奈川神社の位置は今日なお定かではないが、糸魚川市蓮台寺の奥・柳谷にあったが、元暦二(1185)年 秋に山崎の地に移り、その後現在地に移ったと伝えられる。


2)天津神社女神坐像三軀(糸魚川市指定文化財)
左から、27センチ、33センチ、45センチの座高の三軀
面相が整い、奴奈川姫像に近い頃の製作年代と思われる。


3)木造奴奈川神社随神像二軀(糸魚川市指定文化財)
虫食いは多いが、天文九年(1540年)よりもやや古い製作と考えられる。
両足を垂下した姿も古様である。両足先は失われている。像高47センチ。


4)木造天津神社随神像二軀(糸魚川市指定文化財)
二軀の随神像のうち阿形像(左側か?)の地付部に銘があり、「天文九庚子拾月六日」と記されており、天文九年(1540年)の製作であることがわかる。
寄木造彩色の像で、多少傷んではいるが、全国でも随神像中銘のあるものは、岡山県高野神社にある随神像だけであり、きわめて貴重である。


5)懸仏二面(糸魚川市指定文化財)
天津神社には多数の懸仏が伝わっている。そのうちの大きなものは、鏡の直径が91センチに及び、我が国の懸仏中でも最も大きいものの一つとして注目されているが、惜しいことに仏像を失い鏡だけになっている。(左側)
幸い直径70.5センチの懸仏は薬師如来像を本尊とし、これは本地仏である。(右側)
この神社に伝わる懸仏はかなり薄手のものが多く、なかのひとつに文安六年(1449年)の銘のあるものがあり、ほぼ同じ頃の製作と推定される。


前半へSKIP⇒天津神社’社宝展’(前編)




[補足説明をしてみました]
○天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)の命により、葦原中國(あしはらのなかつくに:日本の国土)を統治するため高天原(たかまがはら)から地上に降りた(=天孫降臨)とされる神。天照大神の孫にあたる。

○天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天照大神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。また天孫降臨の際には瓊々杵尊に随伴し、中臣連などの祖となった神。

○太玉命 (ふとだまのみこと)
天照大神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに鏡を差し出した。また天孫降臨の際には瓊々杵尊に随伴した。祭祀を司る神。

○伊勢神宮外宮相殿
三重県伊勢市にある神社で、伊勢の神宮のふたつの正宮のうちのひとつ。一般に外宮(げくう)と呼ばれる。豊受大御神(とようけおおみかみ)を主祭神とし、相殿神(複数の神が相並び坐す)として御伴神三座(天津彦々火瓊々杵尊、天児屋根命、太玉命)を祀る。

○国つ神
天孫降臨以前からこの国土を治めていた土着の神。
天津神社は天つ神(天孫降臨の神)であり、奴奈川神社は国つ神(土着の神)である。

○延喜式内社
醍醐天皇の延喜五年(905年)より集成した法典に「延喜式神名帳」がある。
五十巻三千数百条の条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分され、巻一から巻十が神祇官関係である。巻九・十は神名帳であり当時の官社の一覧表でり、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社を国郡別に羅列している。
ここに記載された神社が「式内社」。つまり平安時代(10世紀)にすでに官社として認定されていた神社であり由緒ある神社として知られていたということ。

○奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売(ぬなかわひめ)を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神(たけみなかたのかみ)で、糸魚川市姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。

○八千矛命(やちほこのみこと)
『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、国作りを完成させる。国土を天孫ニニギに譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となる。

○万葉集に載る歌
「渟名河の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも あたらしき君の 老ゆらく惜しも」(巻十三 三二四七 作者未詳)
(解説)
ぬな川の底にある玉。その玉を探し回ってようやく手に入れたり、偶然に見つけて拾ったりすると、いちだんと立派に思われ、たいせつにされる。その玉のようにりっぱで、たいせつなお方が、齢をとられるのは、ひどく惜しまれてならない。

○勅願所
勅命によって国家鎮護.玉体安穏を祈願した社寺

○懸仏(かけぼとけ)
神道で御神体とされていた鏡に、その神の本地仏を 毛彫(けぼり)したり朱墨で描いたりしたもの。これら平面的なものは鏡像と呼ばれている。平安時代も半ば以降になると、尊像を半肉彫にしたものなどが作られるようになる。

○本地仏
神道の神様と仏教の仏様は同体だという理論(仏教が興隆した時代に出てきた神仏習合思想)においての、神様の本来の姿であるところの仏様ということ。

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